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 Q. キリスト教では同性愛はいけないんですよね?

【パート4】にもどる

 A. ぜんぜんオッケーです。

【パート5】

4.同性愛者差別を越えるために

4−1.なぜ同性愛を罪だと思ってしまうのか。

 (1)深刻な「ホモフォビア」の被害
  同性愛者がきらいだという人のことを「ホモフォビア(同性愛者嫌い)」と言います。それもただきらいだというだけではなく、時によっては「この世から抹殺してしまってもいい」とまで考えてしまうのがホモフォビアの実態です。そして、クリスチャンには、この「ホモフォビア」に毒されてしまっている人がたくさんいます。
  よく日本人のクリスチャンで、「わたしがいけないと言っているのではなく、神がいけないと言っているのです」と言って、神に自分の発言の責任を転嫁する人を見受けます。しかし、これまでにも見てきたように、「神の言葉」たる聖書の解釈ひとつをとっても、同性愛者を責める言葉ばかりが見つかるわけではなかったり、あるいは同性愛者を弁護する立場とも取れるような箇所が見つかることを考えてみると、「神が同性愛を禁じている」と断定することはできません。
  まぁ往々にして人の罪を責める人というのは、自分が嫌いなものを、自分の責任で嫌いだと言えないものですから、神の権威を持ち出して自分を守っている、いわば「虎の威を借る狐」のようなものです。神に責任転嫁をして、自分の言いにくい感情を正当化しているのです。
  まだ日本人の多くのように、「同性愛は神が禁じている」と言葉で言うするだけなら、短絡的な思い込みだというくらいで済むことかもしれませんが、アメリカの一部のクリスチャンのように、非常に激しく「自分たちの信仰のみが正しい」と思い込んでいる人びとになりますと、同性愛者を天罰を代行するつもりで殺害したりという事件も起こっていますから、根は深刻な問題です。(2005年6月13日記)

 (2)「一神教」や「真理はひとつ」についての間違った理解
  同性愛に限らず、ある人数のクリスチャンが集まって、同じような道徳観を共有できた場合、それを「神のご意志である」と思い込んでしまうケースというのは、他にもよくあります。
  例えば、「結婚前に性行為をするのは罪である」、「結婚前に恋愛をするのも罪である」、「妊娠中絶は罪である」、「離婚は罪である」、「教会を休むのは罪である」などなどです。
  そう言いたい気持ちがわかる場合もありますし、明らかにおかしいと思われる場合もあります。それぞれの問題にそれぞれ複数の判断がありえます。
  しかし、つまるところ、全世界共通に通用する正しい考え方や生き方などというものはありえないのです。
  人の世間など狭いものです。せいぜい個人の道徳観など、その人をとりかこむ数十人程度の社会のなかで影響を受けて、あるいは何冊かの本に影響されてできあがってきたものにすぎません。しかもその上、そのような自分の道徳観が、そのような非常に狭い領域でしか通用していないことなのだ、ということに気づかない人がほとんどなのです。
  それでも、下手に宗教など信じていない人には、「これは自分に関して言えることであって、他の人はどうかわからないけれども」と言えるだけの常識的な謙虚さを持っている人は世の中にはたくさんいます。始末に終えないのは、熱心な宗教の信者のほうなのです。
  特にクリスチャンというのは、「一神教である」ということを自分たちでも誤解していて、「正しいことは排他的に一つだ」と思い込む人が非常に多いのです。本来なら、「世界は包括的に一つだ」、つまり、世の中いろいろあるけど、すべてひとりの神さまがおつくりになったことで、すべてが神さまに愛されている、と考えることもできるのですが、残念ながら、「多くの間違ったものの中で正しいことは一つ」という風に考えるクリスチャンが非常に多い。そして、往々にして、その「正しいこと」というのは、自分たちの思い込みにすぎないことがほとんどなのです。(2005年6月13日記)

 (3)聖書の間違った読み方……歴史を無視した鵜呑み
  すでにこのQ&Aのコーナで、「パート1」から「パート2」「パート3」にあげてきたように、聖書の中には同性愛を否定するような言葉がたくさん書いてあります。しかし、それらの言葉を、歴史的・社会的な背景事情を考えることなしに鵜呑みにすると、間違った読み方としてしまうことになる、ということもすでにお話してきました。
  そして、それらの否定的な言葉に対して、「パート4」でご紹介したように、イエスと、初代教会のなかでもイエスの遺志をできるだけ忠実に受けつごうとした人だけが、聖書をもとに同性愛を肯定する手がかりを与えてくれることもお話しました。
  聖書の中には、(一見)同性愛を否定する言葉のほうがたくさんあります。そして同性愛を肯定することができる言葉も、直接同性愛そのものについて述べているわけではありません。その上、聖書を「書いてあるとおり文字通り受け止めることが正しいことなのだ」という考え方の人が多い。そのために、「聖書によれば、同性愛は間違っている」と思うクリスチャンの方が現れてきてしまいます。
  しかし、何度も何度もこのコーナや、他のコーナでも申し上げているように、聖書という本も、ある特定の時代に、ある特定の場所で、ある特定の民族の文化のなかで、ある特定の社会的な背景を前提に、ある特定の目的で書かれた、複数の文書が集まったものですから、そのような特定の背景事情を考えることを抜きにして、文字通りに受け止めるということは、たいへん自分勝手な間違った読み方をしてしまう危険性をはらんでいるのです。(2005年7月1日記)

 (4)「文字通りに読む」という勘違い……差別意識の正当化
  「聖書を文字通りにうけとめる」ということを、得意げに主張する人がいます。しかし、世の中のすべて文章には、「正しいひとつの解釈」というものが存在しません。読む人の数だけ解釈が存在する、と考えるほうが事実に即しています。自分が「ここはこういう意味だ」と読んだとしても、他の人は別の意味で読んでいる可能性がいつも存在しています。
  ですから、意地の悪い言い方になりますが、「文字通りに読んでいる」と言っている人は、「自分の読み方が正しい」と思っているだけであり、「他の読み方を知らない」というだけなのだ、という見方もできるのです。
  「ほかの読み方の可能性を知らない」ということは、結局、「自分のフィーリングだけで読んでいる」ということです。
  「自分のフィーリングだけで読む」とどうなるか。結局、「自分の思い込みを強化する方向で読んでしまう」ということが起こるのです。「やっぱりそうなのか」と思いたい欲求に負けてしまう、ということです。
  これを一言でまとめてしまうと、聖書の読み方には「読む人のお人柄が現れる」ということです。
  戦争を肯定したい人が読めば、戦争を肯定するような文言ばかりが目に入ってきて、「ほら、聖書が戦争を肯定している」と、アメリカの宗教右翼のように思い込むこともできるでしょうし、同性愛に対する差別意識を持った人が読めば、「聖書が同性愛を否定している」という風に読めてしまうのです。もちろん、これは逆も真なりで、戦争を否定する論理も聖書から引き出すことができるし、同性愛を肯定する論理も聖書から引き出すことが出来る(それはこのコーナの「パート4」で示したとおり)のです。すべて、読む人の立場と姿勢から出てくることです。(2005年7月1日記)

 (4)なにかを否定すれば自分の正しさを証明できるわけではない……信仰が暴力に変わるとき
  自分の信仰の「正しさ」を再確認するために、強迫的に「間違っているもの」「罪深いもの」を見つけようとするクリスチャンがいます。
  クリスチャンに限らず自分の属している組織での自分の存在を正当化するために、スケープゴートまたは仮想敵を見つけて攻撃しないと、組織の求心力が維持できないほど危うい状態になっているグループがあります。
  クリスチャンのグループの場合、「罪深いもの」を重箱の隅をつつくようにして発見しようとし、それを徹底的に攻撃することによって、自分がいかに「正しい」かをアピールします。そういうパターンを演じることが常態化している団体もあります。特に若い人がこの攻撃性の担い手であることが多いようです。もちろん若い人だけがそういう思考パターンにはまりこんでいるわけではありません。しかし、若い人のほうがより攻撃的な態度をとることが多いのです。
  本人の中では「罪深いもの」への攻撃こそが「信仰深さ」の証しになるのだ、という思考パターンができあがっており、こうして信仰は暴力に変わるのですが、もちろん本人の中ではそれが暴力だと気づいていません。それは本人にとっては「正義」でしかないのです。(2006年3月28日)


4−2.隠された差別


  同性愛者差別はアメリカで典型的に現れるような形ばかりではなく、日本では一見差別とははっきり判別しにくい(したがって、差別された側は「それは差別です」と指摘しにくい)差別がまかりとおっています。

 
@「赦し」をよそおう差別
  「わたしたち人間はみな罪人なのです。しかし、イエス・キリストの十字架によって赦しが与えられたのです。ですから同性愛も赦されているのです。この神さまからの一方的な許しの恵みに応えて、悔い改めなさい」という口上で同性愛者をまるめこもうとする牧師たちがいる。
  しかし、人間全ての罪と言いながら、話している本人の「罪」は曖昧で範囲もはっきりしないのに、話されている側にとっては「それは同性愛」という具合に、きちんと具体的にターゲットにされているところがおかしい。
  そして、このように言う牧師は結局のところ、「同性愛は罪だ」と言っていることになる。その一方で、「では異性愛も罪か」と問われると、そうとは思っていないものである。どうせ、「みな罪人なのです」と言って説得しようとするなら、「同性愛も異性愛も罪なのです」と言えばいい。そこまで言えば、同性愛だけが差別されているわけではない、とわかる。しかし、実際にはそうではない。結局このような牧師には、同性愛に対する差別があるのだ。
(2006年3月28日記)

 
A「憐れみ」に隠された差別

  
多数派・少数派の関係が逆転したとき、はじめてあらわれる差別性もあります。
  これは、ある教会の例ですが、異性愛者が圧倒的多数で、同性愛者が圧倒的少数派であったときは、「少数派」の権利を大切にしようというスローガンが声高にかかげられていました。ところが、そのようなスローガンを実行に移そうとする努力のなかで、その教会にはたくさんの同性愛者が集まるようになって来ました。そして、ある日、同性愛者のほうがマジョリティとなり、異性愛者のほうがマイノリティになったのです。その時点になって初めて、「こんなはずではなかった」と異性愛者の信徒たちが落ち着きを失ったのです。
  つまり、少数派である限り、受け入れてあげましょう。しかし、自分が少数派になるのは御免だというわけです。
  このように、「少数派を大切にする」というスローガンの中に、自分は少数派にならないことを前提にして、他人に憐れみをかけていただけであり、いっしょにどう生きてゆくのか、ということまで考えてなかったために、意外なときに隠れていた差別が顔を現すことがあるのです。(2006年3月28日記)


4−3.同性愛者差別をなくすために

 (1)「罪」とはなにか、を考え直そう。
  
罪とは、聖書の原語では「的はずれ」という意味の単語で表されます。つまり、「神の創造の意志からかけはなれている」ことが罪であるということになります。また神との関係を崩してしまっている場合も「罪」と呼ぶことができるでしょう。
  大切なのは、それを、個々の細かい人間の行動に当てはめて、「これは罪である」「これは罪ではない」というルールに固めてしまわないことです。
  かつて、古代のユダヤ人はそれを行って、「律法」というものの膨大な体型に自らをがんじがらめにして「律法主義」に陥ってしまいました。律法主義の悪いところは、物ごとの本質ではなく形で人を裁くこと、また、律法に書いてないことはやってもいい、という風に判断されうることです。そして、本来の「神の御心にかなっているかどうか」ということについてまで、律法を守っているかどうかで判断するようになってしまう、つまり順序が逆になってしまうのです。
  しかし、律法に書いていようがいまいが、神とつながっている人はつながっているし、神から離れている人は離れているのです。
  異性愛者なら神の意志にそっており、同性愛者なら神の意志に反している、というのは、異性愛者中心の自己満足的な思い込みに過ぎません。
  同性愛者は生まれながらに同性愛者なのであり、それが自然なのです。ということは、そういう風に神がその人を創造したのです。その人が同性愛者であるということ自体が神の意志だと考えることもできるのですから、本人の自然にまかせるべきではないでしょうか。
  同性愛者は異性愛者と全く同じテーブルについて、同じ権利を主張し、同じ神様に同じような感謝をささげて生きることができるはずです。
  誰も同性愛者が異性愛者と同じ信仰をささげる権利を阻むことはできないはずです。(2006年3月28日記)

 (2)「聖書が全てだ」と思い込まないようにしよう。
  聖書はたしかに、わたしたちの信仰と生活を考える上での、根本的な基本文書であることは間違いありません。しかし、クリスチャンが聖書を引用するとき、聖書の中の多様な見解の存在を無視して、自分に都合のよい箇所だけを抜書きしてきて、自分の発言の根拠に置き、さもそれが神の意志であるかのように声高に主張する危険性をおかしがちです。
  このコーナーの中で、「パート1」から「パート4」までみてきたように、聖書のなかには同性愛者を排除する記事もあれば、同性愛者とは特定していないけれども、性的少数者を守ろうとする言葉も発見できます。どこか1ヶ所や2ヶ所の都合のよい文言だけを引用して自分の見解を正当化しようとするのは、よくないことなのです。
  私は、一見もっともらしく聞こえる女性の権利を擁護する発言を聞いたことがあります。このようなものです……
  「聖書にも、イエスのそばに女性がいました。イエスの復活に最初に出会ったのも女性です。だから、聖書において女性は差別されていないのです」と発言する人がいてmそして、その発言に拍手をする人びともいる……。そういう会合の場面に私は出会ったことがあります。
  一見、女性の権利を擁護していて、もっともらしく聞こえますが、大事なことは、聖書の中でどうこうということよりも、私たちの現実の生活のなかで、たとえば女性や、たとえば同性愛者が、不利益をこうむっていない、ということのほうが、聖書にどう書いてあるかということよりも、はるかに大切なのだ、ということです。聖書においては差別がなくても、現実生活の中に差別があるのなら、「だから差別はありません」とは言えないのです。
  わたしたちは、自分が持っている差別意識を正当化し、権威付けるために聖書の権威を利用している場合があります。しかし、信仰とは、自分の言動の責任を、聖書や神になすりつけることであったり、聖書の世界だけがすべてだと思い込むことではありません。(2006年3月28日記)

 (3)「自分たちが正しい」と思い込まないようにしよう。
  キリスト教会というところは、昔から差別と排除と戦争の温床になる危険性を常にはらんできました。魔女狩り、異端審問、十字軍、例を挙げればキリがありません。また近現代になっても、戦争には従軍牧師が付き添い、戦勝と敵国の殲滅を神や主イエスの名において祈っています。
  誰が罪人か、誰がケガレているのか、誰が神に反しているのか、そいつを割り出して追い出し、そいつのようにならないようにしていれば、自分たちは正しい……そういう方法で自分たちの「正しさ」を自己確認していないと不安でしょうがない、教会というのはもう本当にそういうしょうがない人たちの集まりになってしまう危険性を常にはらんでいるのです。
  しかし、教会も人間の集まり、おおよそイエスの福音とはかけはなれた人も案外たくさんとぐろを巻いているものです。
  私たちは、これまでも歴史上たくさんの過ちを犯してきたことを素直に反省し、現在も、これからも同じように罪を犯す可能性があることを認めないといけません。そして、同性愛者への差別、暴力も、そのような過ちの一つではないのか、と深く自分を見つめてみないといけないのではないでしょうか。

 
 「けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」(使徒言行録10章28節)

〔最終更新日:2003年3月17日〕

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