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 Q. キリスト教では同性愛はいけないんですよね?

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 A. ぜんぜんオッケーです。

【パート4】

3−4.初代教会はどのように対応しているか(使徒言行録8章26−40節):福音宣教者フィリポをめぐって

性的少数者を積極的に受け入れようとした伝道者

■初代教会の2つの派閥
  初代教会、特にイエス亡き後、しばらくはユダヤ人クリスチャン共同体の中心的な位置にあったエルサレムの教会に、
フィリポという宣教者がいました。
  エルサレム教会は、あのペンテコステの出来事、すなわちイエス亡きあと、およそ50日後の、ユダヤ教の五旬祭の日に、聖霊がイエスの弟子たちにくだり、教会を造ろうという一大運動につながっていったという、あれがもとになってできてきた教会ですが、しばらくすると、教会の中の「ヘブライ語を話すユダヤ人」と「ギリシア語を話すユダヤ人」の間で、対立が起こるようになります
(使徒言行録6章1−7節)。これは単に言語の違いだけではなくて、ユダヤ的な生活スタイルをキープしたいクリスチャンと、ローマ的な脱ユダヤ的な生活スタイルに慣れたクリスチャンの間の、さまざまなレベルでのギクシャクした関係があったのではないかと推測されています。
  結果的にエルサレム教会では、「ギリシア語を話すユダヤ人」のグループは7人の奉仕者が選び出し、その7人は12使徒とは異なる方針と領域で宣教活動を始めたわけです。フィリポはその7人の奉仕者のうちの一人でした。
  この「ギリシア語を話すユダヤ人」グループは、当然、その脱ユダヤ的なライフスタイルゆえに、ユダヤ教原理主義者たちから激しく迫害されました。たとえば、フィリポ以外に、
ステファノという人物がこのグループの中にいましたが、彼はかなり早いうちに、12使徒よりも先に殉教の死をとげています(使徒言行録7章54−60節)。おそらく「ヘブライ語を話すユダヤ人」たちは、ユダヤ教の戒律を厳格に守るライフスタイルを、クリスチャンになってからも変えなかったので、ユダヤ教との違いが目立たず、迫害から逃れやすかったのでしょう。

■フィリポの宣教:民族差別を超えて
  さて、「ギリシア語を話すユダヤ人」グループから選出された7人の奉仕者のうちの1人であるフィリポという人は、やはり当時のユダヤ教的な常識からは考えられないような宣教をしてゆきます。
  彼はエチオピアから来た宦官に聖書を教え、キリストの福音を宣べ伝えたというのです
(使徒言行録8章26−40節)
  まず、エチオピア人というのは、ユダヤ人にとっては異邦人です。ですから、そもそも当時のユダヤ人にとっては汚れた、あまり接点を持ちたくない人種です。たとえば、イエスの十字架を代わりに担がされた「キレネ人シモン」という人も、北アフリカのキレネ(キュレナイカ)出身で、要するにユダヤ人が見下しているアフリカ人だからこそローマ兵はわざと十字架を担がせたわけです
(マルコによる福音書15章21節ほか)。ユダヤ人の誰かに担がせたら、それこそ暴動が起きていたでしょう。そういうわけで、民族差別という観点から見ても、エチオピア人のために奉仕するというのは、かなりユダヤ主義から脱しています。

■フィリポの宣教:性的少数者差別を超えて
  加えて、このエチオピア人は宦官です。
  宦官というのは宮廷の女性たちに仕えるために、男性器に加工を加えて女性と交われないようにした人びとです。
  これは
申命記23章2節の規定「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」によれば、排除されるべき人です。子どもができ、子孫が繁栄することこそが神からの祝福だと信じるユダヤ教からすれば、神が創造したとおりの状態の性器を、子どもができない状態に造り変えることは罪であると考えるのは、当然のことかもしれません。ユダヤ教的な常識からすれば、この宦官は罪人です。こういう人間は排除し、ユダヤ人は決してこういう人間と交流を持ってはいけないことになります。触れたり近づいたりすると汚れ(けがれ)がうつるからです。
  ある意味、ユダヤ教的発想から見れば、
この宦官は性的少数者と言えます
  神が
「男と女に創造された」(創世記1章27節)、だから「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(同28節ほか)とおっしゃった、その神のご意志から離れる性的指向をもっているから、同性愛者は罪人だというのなら、この宦官も同性愛者と同じく罪人です。それも、性的少数者として罪人だというレッテルを貼られているのです。
  ところがフィリポはそういう民族の壁、性的少数者差別の壁を越えて、福音を宣べ伝え、彼に洗礼を授けます。
  彼は、宦官が罪人だとも言わないし、あなたとわたしは近づくことは許されないとも言いません。ただ、聖書を解き明かしてくれ、と願う宦官の求めに応じて聖書を教えてあげ、洗礼を授けるだけです。洗礼を授ける条件に、宦官であることを悔い改めることをフィリポは要求していないのです。
  そして、宦官は
「喜びにあふれて旅を続けた」(使徒言行録8章39節)と書かれていますから、きっとフィリポはこの宦官が何も自己否定しなくて済む、本当に心から喜べるような聖書の解き明かしをしたのでしょう。フィリポがこの宦官を裁いたり非難したりするような事を話していたら、宦官は「深く悲しんで」去って行ったか、「悔い改めて」洗礼を受けたはずです。しかしそうではなく、この宦官は心から喜んで福音を受け入れ、洗礼を受け、宦官のクリスチャンとして旅を続けたのでした。
  ここには、
性的に多数者とは違う傾向を持っている人だからといって排除しない初代教会の宣教者、そして裁かれずに洗礼に導かれた性的少数者の姿が描かれているのです。ここには、わたしたちがさまざまな裁きの境界線を越えて、共に喜び合うことができる、という一つのモデルがあるのでないかと思います。

■イエスから遠いエルサレム教会の差別性
  ただ、宦官に洗礼を授けたあと、
「宦官はもはやフィリポの姿を見なかった」(使徒言行録8章39節)と書いてあります。そして、「フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った」(同40節)とあります。
  わたしは、これが、フィリポがエルサレムの教会から縁を切られて、独立せざるを得なかったことを暗示しているのではないか、と推測しています。つまり、エルサレムの教会は、「宦官」という今で言うところの性的少数者を受け入れるフィリポの考えと行動を受け入れることができず、かえって彼を排除したということです。
  しかし、エルサレム教会が常に正しいとは限りません。むしろ、先述した
ステファノの殉教のように、むしろエルサレム教会の主流派の12使徒から別れ出た「ギリシア語を話すユダヤ人」の7人の奉仕者のほうが、イエスの生き様・死に様に近かったとも言えるのです。
  そのしるしに、ステファノの死に際の言葉
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7章60節)は、イエスの死に際の言葉「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)にそっくりですし、フィリポが宦官の前から姿を消した瞬間の描写「宦官はもはやフィリポの姿を見なかった」(使徒言行録8章39節)も、イエスがエマオに向かう二人の弟子たちに現れたとき、パンを裂いて二人に渡した瞬間の描写「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカによる福音書24章31節)にそっくりです。
  実はルカによる福音書も使徒言行録も同じ著者によって書かれたと言われていますが、少なくともこの著者にとっては、ステファノもフィリポも、イエスにたいへん近い人物として描かれていると言えるのではないでしょうか。そして、そういうイエスにたいへん近い宣教者・奉仕者たちを、エルサレム教会は分派と見なし、排除していった様子も、このように注意深く読めば浮き上がってくるのです。
教会の主流派が必ずしもイエスに忠実だというわけではないのだ、ということを使徒言行録という本は教えてくれます。

■フィリポの宣教:ジェンダー差別を超えて
  実はこの後フィリポは、使徒言行録では21章に再登場します。パウロたちがカイサリアに来たとき、フィリポに会うのです。カイサリアまで行ったフィリポ
(使徒言行録8章40節)は、たしかにここで宣教を続けていたのでした。
  
「翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。この人には預言をする四人の未婚の娘がいた」(同21章8−9節)
  ここでもフィリポは、当時の教会主流派から外れるユニークな活動をしていました。娘、つまり女性に預言をさせながら福音宣教をするということは、すでに早期から男性中心的な教会の体制を作り始めていたエルサレムの教会主流派には考えられなかったことです。また、女性は結婚することが人生最大の価値とされていた時代ですから、娘に未婚のまま預言の奉仕をさせて福音宣教を進めるということは、当時の風習からもかなり逸脱したものです。
  しかし、
フィリポにとってもっとも大切なことは、福音を宣べ伝えることであり、彼が信じ、語っていた福音は、男女の差や、セクシュアリティの違いなどの、さまざまな境界線を乗り越えてゆくものだったわけです。
  わたしたちが、ジェンダーやセクシュアリティの壁を越えた福音宣教を考えるとき、イエスに忠実であったフィリポの姿はたいへん示唆に富むものだと思います。
  また、わたしたちが、ジェンダーやセクシュアリティの壁を越えた福音宣教に抵抗をおぼえるとき、フィリポらにとった初代のエルサレム教会の対応もまた示唆に富むものであると言えます。(2004年3月17日記)
  
  
3−5.イエスはどのように言っているか(マタイによる福音書 19章10−12節)

自ら性的少数者差別を引き受けようとしたイエス

■結婚しない人の3パターン
  
イエス真正の言葉かどうか(本当にイエスが言ったかどうか)については、学問的には検証の余地がありますが、マタイによる福音書の中に、さきほどあげた使徒言行録8章26−40節の「フィリポと宦官」のエピソードと関連する、興味深いイエスの発言があります。
  引用してみましょう。
  
「弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイによる福音書19章10−12節)
  この言葉は、イエスがファリサイ派の人びとと、離縁の是非について論争した直後に置かれたものです。他の福音書にはおさめられていません。マタイによる福音書だけがこの言葉をおさめています。ですから、もともとは離婚の是非の論争とは関係なく、まったく独立したイエスの言葉として言い伝えられてきた可能性も高いでしょう。それをマタイがここに配置したと言うわけです。
  この言葉は初期のイエスの弟子たちが、放浪生活を行いながら人びとに福音を宣べ伝え、病気を癒しながら旅をしていった生活スタイルが反映しているとも言われます。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイによる福音書8章20節)や、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(マタイによる福音書14章26節)といった言葉にも現れている感情ですね。イエスとその間近にいた弟子たちは、家を捨て、家族を捨て、活動に専心していたわけですから、通常の結婚とか家庭、夫婦というものに対しては積極的な値打ちを見出してなかったのです。

■日本語訳は正確ではない
  上記に紹介したマタイによる福音書19章10節以下では、イエスは3種類の「結婚しない人」のパターンを紹介して、それを「受け入れなさい」と言っています。
  日本語(新共同訳聖書)で読むと、こうなります。
     (1)結婚できないように生まれついた人がいる。
     (2)人から結婚できないようにされた人もいる。
     (3)
、天の国のために結婚しない人もいる。
  実はこれはかなり意訳されていて、できるだけ聖書から直訳調で訳しなおすと、以下のようになります。
     (1)母親の子宮から(母の胎から)そのように生まれてきた去勢者(宦官)がおり、
     (2)
また、人の手によって去勢された去勢者(宦官)がおり、
     (3)
また、天の国のために自らを去勢した去勢者(宦官)もいる。
  これ、かなり意味合いが違うの、わかりますか?

■もともと性的少数者についてのイエスの発言だった
  聖書の原典では、
「結婚できない人」とか「結婚しない人」ではなく、「去勢者/宦官」と書かれているのです。
  もちろん、マタイは離婚のついての問答のあとにこのイエスの言葉を置いています。しかし、先にも一度書いたように、この去勢者/宦官について述べているイエスの言葉を記録しているのはマタイだけです。ほかの福音書記者はこの言い伝えを知りません。ということはマタイが、どこか別のところから引っ張ってきて、ここに編集上配置した可能性が高い。つまり、もともとは独立した言い伝えだった。言い換えると、まったく別の状況でのイエスの発言だった可能性が高いのです。
  ま、要するに前後の文脈と関係なく、この
10−12節の言葉だけ切り離して読んでもいいよ、というわけです。
  新共同訳聖書の日本語訳は、マタイの意図をくんで結婚・離婚の話と関連させた訳をしているわけですし、たしかにぱっと読んでいて、いきなり「去勢者がいて……」とか言う言葉がとびだしたら、読んでるほうはわけがわからなくなるから仕方がないかもしれません。
  でも、もともと別の話だよ、というつもりで、ここだけ独立させて読んだら、これは「去勢者/宦官」の話だとわかるわけです。
  そして、「去勢者/宦官」は、当時のユダヤ人にとっては、排除すべき存在でした。なぜなら、申命記23章2節には「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」とありますし、それを人為的に、意図的にやるということは、罪となるからです。(こちらも参照)
  考えてみるとマタイが去勢者/宦官についての話を、結婚しない・できないの文脈においたのも、とてもユダヤ教的発想と言えます。なぜなら、結局ユダヤ律法的な観点に立てば、性の問題において大事なのは、子どもができるかどうか、です。子どもができるということは神の祝福があるということであり、子どもができないということは神の祝福から外れているということです。結婚とは子どもを作るためにするものであり、去勢=子どもができないようにすること=結婚できないようにすること、なのです。
  しかし、これはユダヤ教的発想をしたマタイがそういう編集をしたというだけのことです。日本語の訳までそれにのっかってしまったら、本当にイエスが言いたかったことを覆い隠してしまうことになるかも知れません。
  この
マタイによる福音書19章10−12節が、独立したイエスの言葉の言い伝えであるならば、イエスは当時ユダヤ人社会で差別され、排除されていた去勢者/宦官のことについて、特にとりあげて述べた可能性があるのです。
  差別されていたということは、「去勢者/宦官」という言葉自体が差別用語として使われていた可能性が高いということです。いま風に言うと、「オカマ」とか「タマなし」というような物の言い方になりますでしょうか。

■宦官も宗教的独身もおなじ
  さて、もういちど、新共同訳聖書のマタイによる福音書19章10−12節を整理したものを見てみましょう。
     (1)結婚できないように生まれついた人がいる。
     (2)人から結婚できないようにされた人もいる。
     (3)
、天の国のために結婚しない人もいる。
  この(3)の「
」が問題なのです。
  これだと、(1)と(2)の、先天的理由であれ、後天的理由であれ、結婚「できない」人に比べて、(3)の「天の国のために」独身を貫く人のほうが優れているような印象を受けます。
  もちろんこれもマタイの意図を汲んでのことでしょう。マタイは、結婚とか家庭とか、そういうものよりも放浪生活を選んで宣教に専心するイエスと弟子たちの姿を描きたかったのでしょう。
  しかし、もともと独立した言い伝えだったとすると、ちょっと見方が変わってきます。
  わたしはさっき、直訳するとこうなるよ、と言いました。
     (1)母親の子宮から(母の胎から)そのように生まれてきた去勢者(宦官)がおり、
     (2)
また、人の手によって去勢された去勢者(宦官)がおり、
     (3)
また、天の国のために自らを去勢した去勢者(宦官)もいる。
  この「
また」というのは、ギリシャ語では「και」(kai:カイ)という接続詞です。
  この「カイ」は、いろんな意味を持っています。前後の文脈によって、「and」(そして)になったり「but」(しかし)になったりします。これじゃあ、まるで逆の意味になりかねませんよね(笑)。解釈する人によって意味が違ってしまうのです。ですから、別に」と訳してもかまわないのです。
  しかし、原典の文章は、こういう構成になっています。
     「(1)の文章」→ 
カイ →「(2)の文章」→ カイ →「(3)の文章」
  ちなみに、参考までに英語訳でも、たいてい……
     「(1)の文章」→ 
and →「(2)の文章」→ and →「(3)の文章」
  ……となっています。それを、わざわざ(2)と(3)の間だけ「
but」の意味で訳する必然性があるのかな? と。素直に「……and……and……」(そして……そして)で読み流せばいいんじゃないのかな? と。
  さらにちなみに、「……και……και……」という言い回しは、「not only……but also……」(……だけでなく……も)という意味で読むのだ、という原典注解もあるくらいなのですよ。
  そうなりますと、いよいよ(1)、(2)、(3)の3者の間に優劣をつけるのではなく、単純に並列すればいいではないかということになる。
  つまり……
     (1)先天的去勢者、すなわち、先天的に男性器に変化が見られるとされる人。
     (2)後天的去勢者、すなわち、人為的に去勢した人、宦官など。
     (3)宗教的去勢者、すなわち、宗教的な目的のために結婚しない人。
  ……この3つは同列だ、とイエスが言った、ということになるわけですね。
  しかし、(3)の宗教的に去勢する、なんてことがあるのでしょうか?

■イエス自身が「あいつはホモだ」と差別されていた
  なぜイエスは、先天的に男性器に異状があると思われる人間と、人為的に去勢した宦官のような人と、「天の国のために」結婚しない人を並べるような物言いをしたのか。
  なぜイエスは、こういう物の言い方をしたのか。
  
「生まれつき(母の体内にいたときから)去勢された者がいれば、人の手によって去勢された者もいる。そして、天の国のために去勢された人間もいるのさ」というような物言いをしたのか。
  いやいや、まだこの訳し方は言葉がやわらかすぎるかも知れません。さきほど、「去勢者/宦官」は「オカマ」「タマなし」に匹敵する差別用語である可能性があると申しました。そうなると、こんな風にも訳せます。
  
「生まれつきのタマなしもいれば、わざわざタマなしにしてもらうようなヤツもいる。そして、天の国のためのタマなしもいるのさ」
  これはひとつの推測ですが、イエスやイエスの弟子たちの幾人かは、じっさい自分たちが「あいつらは去勢者だ」と蔑まれていたのではないか、という考え方が出来るのではないでしょうか。
  イエスが結婚していたかどうかというのは、一部の人たちの間では議論がなされていたりするようですが、彼がガリラヤの町や村を巡り歩き、最終的には逃げも隠れもせずエルサレムに向かい、堂々と逮捕されて十字架で処刑されていくまでの、短く激しい生涯を見て、結婚していて彼なりの家庭生活があったということは考えにくいことです。
  むしろ、このようなイエスの物言い、「天の国のためのタマなし」発言が、イエス自身が独身であったことを裏付けるものになるのではないでしょうか。
  イエス当時のユダヤ教のラビは、結婚していて初めて一人前のラビとして認められるという風潮がありました。イエスは結婚していなかったために、「彼は去勢者(タマなし)ではないのか」と、ライバルの律法学者たちなどから揶揄されることもあったのではないでしょうか。
  そこで、イエス独特の皮肉たっぷりの物の言い方になりますが、「生まれつきのタマなしもいるし、わざわざタマなしにしてもらうヤツもいる。オレたちは言ってみれば天の国のためのタマなしだな」と彼は言ったのだろう、と。もともとイエスが、ライバルたちの差別用語を逆手にとって言い返した言葉ではなかろうかと推測されるわけです。
  あるいは、そこまでではなかったにしても、このイエスの言葉は同性愛者差別に対して、はっきりとイエスが否を唱えている箇所として注目すべきではないかと思います。
  何度も触れているように、男性に対して「去勢者/宦官」と呼ぶことは、ユダヤ人の間では「結婚できない一人前の男ではない者」、「ユダヤ人会衆の中から排除すべき存在」として蔑むことを意味していました。いわばいま風の言葉でいえば、「タマなし」「オカマ」と蔑むのと同じです。そのような、先天的あるいは後天的理由でオカマになっている人間をならべて、「天の国のためにオカマになっているヤツもいるんだよ」という言葉を発することは、
「天の国は近づいた」(マタイによる福音書4章17節)と言って活動しているイエスが、「オカマ」と呼ばれて見下されている立場の人と同じところに自分を置いている、ということを示すのです。
  「オレたちは、天の国のオカマなのさ」
  そんなことを言って、その当時なりの性的少数者差別を笑って吹き飛ばしてゆく、そんなイエスの力強い優しさが感じたいものです。(2005年5月31日記)


【パート5】につづく

〔最終更新日:2003年5月31日〕

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