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 Q. キリスト教では同性愛はいけないんですよね?

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 A. ぜんぜんオッケーです。

【パート3】

3.新約聖書には同性愛についてどう書いてあるか。

  さて、いよいよ新約聖書です。
  旧約聖書が性的少数者(セクシュアル・マイノリティ)について書いている記事は、いずれも古代イスラエル/ユダヤ教の法律ですので、地域・民族・時代、いずれも限定された状況下で生み出された規則だから、ということで距離をとって読めばよいのですが、新約聖書の記事は、旧約よりもダイレクトにクリスチャンに影響を与えている度合いが強いので、より慎重に読まなければならない気がします。


3−1.パウロの手紙その1(ローマの信徒への手紙1章24−32節)

(1)パウロが本当に非難したかった問題
  新約聖書で、はっきりと同性愛を禁じているように読めるのは、パウロの手紙です。同性愛の禁止のように読める箇所は1節だけですが、(聖書を読むときは、いつもそうした方がよいのですが)前後の文脈も含めて、再読してみましょう。
  「そこで神は、
彼ら心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、らは互いにその体を辱めました神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています」(ローマの信徒への手紙1章24−32節)

  まず、最初に出てくる
「彼ら」とは誰のことか。
  この箇所よりもちょっと前に
「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを表されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかです。神がそれを示されたのです」(同 1章18−19節)という言葉があり、ここから「彼ら」を非難する言葉が続いています。
  続く20−23節を、一部要約しながら、ざっと読んでゆくと……「世界が造られた時から、神の見えない性質は、神によって造られた人間に現れているのであり、この人間の性質を通して神を知ることができる。だから、不信心な彼らには弁解の余地がない」(20節)
  「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」(21節)
  「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、」(22節)
  「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」(23節)

  ……というわけで、この
「真理の働きを妨げる人間」たちである「彼ら」とは、「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えた」人たち、つまり偶像を拝む人たち、すなわち当時のギリシャ・ローマの神々の像を拝む人たちを指しています。
  「そこで……」と、先に引用した、24節以降の、問題の文章につながってゆくわけです。「造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えた」という25節の言葉も、つじつまが合います。

  このキリスト教の神ではない、異教の神々の偶像に対する礼拝を続ける人々への非難の言葉の間に、気になる言葉が織り込まれてゆきます。「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」(24節)とあります。
  なぜ、偶像礼拝と
「不潔なこと」「体を辱しめること」が関係するのでしょうか。それは、当時のローマ神殿では、神殿娼婦神殿男娼と呼ばれる人たちがいて、これらの人々とセックスをすると神々と交わることになる、というような、あるいは、神々の前でセックスをする事で神々を喜ばせたり、刺激したりして、神々にも多産や豊作の恵みのご利益を発揮していただく、というような意味づけで、性の儀式が行われていたわけです。これはローマの神殿
だけではなく、古代の宗教にはよく見られる現象で、旧約聖書にもときどき神殿娼婦が登場してきます。
  だから、改めて26節以下でこういう言い方が出てくるわけです。「女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い……」

  そういうわけで、パウロがここで非難している問題のメインテーマは、神殿娼婦・神殿男娼との性の儀式を含む、ローマの神々を祭る神殿での祭儀、および、そこに詣でる人々のことを指しているわけです。
  キリスト教とは違うローマの神々の祭る宗教やその儀式を非難する文脈で言っているのですから、これは現在わたしたちが知っているセクシュアリティとしての同性愛、個人と個人の愛のバリエーションとしての同性愛とは違うものです。そういう愛のあり方を、パウロはおそらく知らなかったでしょう。
  この箇所を読むとき、同性愛を差別したい人たちは、同性愛を非難する言葉だけをつまみ食いするようにピックアップして読む傾向があるのですが、そうすると、その言葉の前後にある文脈とのつながりが成立しにくくなります。
  したがって、この聖書の箇所を単純に現代における同性愛にたいする非難の根拠として引用するのは、正しい聖書の用い方ではありません。(2003年3月17日記)


(2)パウロに性の問題は相談できない
  もっとも、だからといってパウロが、神殿で行われる祭儀以外の男同士の性愛を認めていたかと言えば、それはかなり疑わしいでしょう。
  しかしパウロの性に対する考え方については、もはや現代のわたしたちが真に受けて鵜呑みにする必要は無い、というのはいまや常識です。
  たとえば、
「ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです」(コリントの信徒への手紙T 11章3節)という差別発言は有名ですが、今はこんな言葉をパウロのメッセージのなかでもっとも大切な部分だと考える人は、そうとう男尊女卑的な考えの持ち主以外にはいないでしょう。
  同様に、パウロが「同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行為の当然の報いを身に受けています」と言ったところで、その言葉だけをピックアップして、「パウロがこう言っているから、同性愛はダメだ」と言うのもおかしいのです。
  そういうことをする人は、パウロの女性蔑視の発言を引用して女性を見下す人と同じように、結局、
「自分の中の差別的なものの考え方を聖書で正当化しているに過ぎない」のです。つまり、「差別しているのは、聖書でもパウロでもなく、その人自身だ」ということです。

  パウロも人間ですし、2000年前のローマ帝国という時代・社会にの中で生きていた人間です。彼がその時代・社会の男女観や性意識の影響をうけて話していることは確かです。そのような時代・社会の条件を無視して、彼の言葉を文字どおり、それも部分的に切り取って、絶対化することは正しいことではありません。
  パウロのメッセージの本質は「律法からの解放」、つまり「あれをすれば神に呪われる」「これをしなければ神に呪われる」といったがんじがらめの宗教ではなく、そういう呪いはぜんぶキリストの十字架が引き受けてくれたんだから、わたしたちは自由にされた者として、キリストの愛を自分でも実践しながら生きていこうということです。それ以外の、細々した彼の言辞にあらわれる、いまの我々から見れば差別的に感じられる言葉ひとつひとつが大切だと言うわけではないのです。

  それに、どうやらパウロは、性行為や性的欲求そのものを、非常に程度の低い次元のものとして扱い、正面から向き合うよりは、なるべく避けるべきものとして処理したがっているような気配を感じさせます。
  たとえば、パウロの結婚観は、あらっぽく要約すれば、「ガマンできないんだったら、結婚してもバチはあたんないけど、結婚したってロクなことはないよ」といったようなものです。
  
「今、危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです」(コリントの信徒への手紙T 7章26節)
  「しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです」(同28節)
  「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思い通りにしなさい。罪を犯すことはなりません。二人は結婚しなさい。しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです」(同36−38節)

  「危機が迫っている」つまり、もうすぐこの世の終わりがやってくる! と思っているパウロにとっては、結婚なんて価値の低い、「どうしてもしたかったらすればいい。しないと婚前交渉しそうだって言うんなら、仕方ない。結婚するがよかろう」という程度の事柄でしかない。性的欲求の適正なはけ口としての結婚生活。彼の性と結婚についての認識など、この程度なのです。
  だから、恋愛や愛情表現のあり方、愛し合う二人の関係のあり方について、セクシュアリティとパートナーシップ……などといった現代人の悩み相談は、パウロ先生には持ちかけないほうがよい、ということなのです。(2003年3月17日)


3−2.コリントの信徒への手紙T 6章9−10節、および、テモテへの手紙T 1章9−10節)

性犯罪と性的虐待への非難
  そのほか、パウロの手紙であるコリントの信徒への手紙T、またパウロの名による手紙であるテモテへの手紙Tにも、「悪徳表」のひとつとして、男性同性愛行為がリストアップされています。
  
「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません」(コリントの信徒への手紙T 6章9−10節)
  
「すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです」(テモテへの手紙T 1章9−10節)
  男娼については、すでに前の項目で、神殿男娼のことを含めて異教崇拝を批判しているのだ、ということは確認しましたが、これにくわえて、「男色をする者」という記述が出てきます。
  新約聖書で言う男色とは、「もっぱら強制的に誘拐されてきた少年を売り物にした売買春のことである」という報告もあります。(参考:小原克博「新約聖書の性倫理−テストケースとしての同性愛」、『性の意味−キリスト教の視点から』新教出版社、p.134−154所収)
  そうなると、新約聖書が非難の対象としている男色とは、実態としては児童虐待および性犯罪でもあるということになります。テモテへの手紙のほうの悪徳表を見ると、「誘拐する者」が「男色をする者」の隣に並べられていることも、何をかいわんやという感じに受け取られます。
  性犯罪を禁止する言葉であると受け取るならば、それと、対等な恋愛関係がたまたま同性同士の間で行われるということとは、無関係ということになります。(2006年3月28日記)


【パート4】につづく

〔最終更新日:2003年3月17日〕

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